自然界に存在しない色がある。
真っ白であり、真っ黒だ。
白や黒に見えているものも、それは限りなく白に近いものであり、限りなく黒に近いもの、を見ているに過ぎない。
実際の真っ白は光に溢れた見えない世界であり、真っ黒は光が皆無の全く見えない世界、暗闇だ。
この世の中は、自然界の道理で動いていることを知っているならば、教わるものは多い。
この道理を人にあてがうならば、真っ白(無欠の善人)の人や真っ黒(無欠の悪人)の人はいないということになる。
この道理はかなり重要にもかかわらず、つまらない印象やプライドなどで、強いバイアスがかかっている場合が多い。つまるところ偏見だ。
例えば、わたしをはじめ、神職や住職、また神父であっても、さらにいうなら学校の先生や政治の先生方、弁護士その他・・・人間である以上、完璧で無欠の善人は存在しないし、一方その反対も、また然り。だ。
洞察を鈍らせてはいけない。
そしておさえておくべきは、真っ白や真っ黒の存在する世界は、
わたしたち「人」を超越した、畏し世界であると境界があることをわきまえる節度にある。
さて、人を色で例えることに、もう一つの自然界の摂理を加えると、所作や対処がより鮮明になるので深掘りしたい。
そのファクターとは「向き」だ。
自然界にある風には、向きがある・・・風向き・・・風の方角、風の行方。
無風は、人が感じているだけのものであって、自然界に無風状態は存在しえない。
境内の掃除に慣れると、僅かながら風向きに違いがあるのがわかるようになる。
この風向きに逆らわずに掃除をすると、効率があがるのは言うまでもない。
自然界の摂理「向き」の導きである。
祈りを捧げる時、人は概ね良い導きを願っているはずだ。
言い換えると、より良い方向(白い方向)への導きを授かりたいと願っている。
信心があれば、白の方向に心身は向かう。
一方独善的な者は、自分さえよければと悪事に手を染めて、限りなく黒の方向(悪の向き)に向かっていく。
ここで重要なのは、この両者は色の濃淡はあれど、ともにグレーだということ。
何が大切なのかは、白か黒かの単純な二択の断片を見ることではなく、その人物の向かっている方向が大事であるとわかるはずだ。
この見極めが真贋となる。
上流と下流で、同じ川でも姿はまるで違う。
もっともらしい話や装飾されただけの見える世界にありがちな、白黒の二択の単純なトリックに騙されてはいけない。
そこには、無いものをあるもののように見せかける、断片を擬似的に悪用した詐術にすぎないことを忘れてはならない。