ツキを呼び込む うさぎと桃の社

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沸点はどの位置にあるか?

独り言

誹謗中傷、罵詈雑言を浴びて怒りの感情が湧くのはどのあたりだろう?
自分自身か、両親か、または子供か、祖父母か、所属する会社か、出身都道府県や出身校か、日本国やアジアか、性別や所属団体か・・・
該当事項が思い当たるならば、その対象には誇りやプライド、あるいは敬意や愛情の感情が伴っているはずである。
価値観やアイデンティティ、人生観にも通底する。
仮に自分自身の他にないのならば、他との関係は存在はすれど実態は無いに等しいものだろう。
自分自身ですら対象とならないというならば、それはとても悲しいことである。

私の子供時代、
お前の母ちゃんデベソ・・・お前家の○○・・といった決まり文句があった。
決して良い言葉ではない。相手にダメージを負わす一撃となるフレーズだ。
今ではとんと聞かなくなったし、口に出したところで一笑に付される程度なのかもしれない。
今はこんなあからさまな言葉ではなく、
顕在化させないような「いじめの仕打ち」が編み出され、
特定個人への陰湿な攻撃が闇で蠢いているように思う。問題は点在し対処も難しくさせている。
人間力という言葉が適切ならば、人間力を上げる他無い。今すぐに。

私が心配になってしまうのは、怒りの沸点に到達する対象の領域は狭くなる一方で、
時間の経過に比例し減少し続けているのではないかという懸念だ。
やみくもに怒りの輪を広げよと言っているのではない。
自分以外に、自分と同等あるいはそれ以上に大事であり、
関わりに誇りやプライド、愛情を持つ対象がどれほどあるか点検してほしい。
冒頭の問いの通りに。
全く存在しない、そんな殺伐とした世の中に成り下がってはいけない。
今は血縁の関係にさえも希薄さを感じてしまうが、これは杞憂だろうか。

祝詞の結びに、
「子孫の八十続五十橿八桑枝の如く立ち栄えしめ給へと」(うみのこの やそつづき いかしやぐわえのごとく たちさかえしめたまえと)
奏上することが多い。
まだ見ぬ自分の子々孫々の繁栄を神々に願うものだ。今の私たちに、そんな将来へ思いを致す余裕があるだろうか。
そんな思いを抱いてくださった先祖があって今の私が存在する。今の私たちに、そんな過去へ思いを致す余裕があるだろうか。
過去の代々の人々と自分との繋がりに思いを馳せ、連綿と続く未来の人々と自分との関係に思いを馳せる。
この壮大な物語の今を生きる自分がなすべきは、自分にかかわる大事な対象に対し、他利や愛情を惜しみなく注ぎ、そしてしっかりとバトンをつなぐ。
このことを忘れているのならば思い出してほしい、今すぐに、なのだ。