「次」というと、出くわす人、物、事象をつなげてみると具体的になる。
自分が直面している人のことや、物、事象が浮かぶだろう。
たいていの場合、ここには順序も存在する。
この世にあっては、次に誰かに会い、何らかの出来事に遭遇していく。ここに例外はない。
つまるところ自分に直接的に正対している「人・物・事」に次に遭遇する。これは人生の核心である。
だからこそ「次」の事象に対し、必要以上に怯え不安に駆られたり、
一次の(直接)関係の人々とトラブルの懸念にとらわれてしまい悩みに陥る。
神仏への祈りの源泉には、得体のしれぬこの次への恐怖もある。
詣るということを紐解くと、
まず神仏への敬愛の念を込めて、これまでの平穏に感謝し、そして「次」への安寧を願うことと整理できる。
「次」への備えが詣ることの核心の一つをなす。これは例大祭も個人の参詣も同じ様式である。
大切なことは「次」には「その次」がある原則だ。
あまりに日々が汲々としてしまうと、意識は「次」のみに専有されて、「次の次」の存在が意識から欠落してしまうことがある。
次の次の具体例は、自分の子供の次の孫のことや、自分の親の次の祖父や祖母とみることができる。
自分の上司の上司や、自分の部下の部下も次の次に当てはまる。
自分の家の隣の隣も同じ。
この関係は良いのか悪いのか。実のところ、この三次の関係は人間の厚みをまし、深い素養を育む命脈と知っておきたい。
根と幹と葉・花の三次の関係を思い浮かべるとすぐにこの縮図が理解できるはず。三次の絆を繋ぎ、忘れたり軽んじてはならない。
時系列で次を置き直すと「次の次」の重要性はもっと明白になる。
「次の次」の事象までが見えて備えがあるならば、直面する次への事象に対する得も言われぬ恐怖は薄れるだろう。
次の次がわかっていれば、次への備えはより的を射たものになるに違いない。
この鍛錬を繰り返し、「次の次の次」まで見ようと努力しよう。
日本人の源にある奥ゆかしさは、次の連なりへの洞察に優れ、培われた心配りにあるのではないだろうか。
古事記は「次」や「次の次」「次の次の次」の示唆で溢れている。
天地のはじまりからして「次」の連鎖でなし得ている。
我が国の壮大な神話は、「次の次の次」の有り様を私達に教えてくれている。