名誉のあること、栄誉のあること、名誉の称号や、栄誉の称号とは一体何か。
それは、要職に就くことや、何かを受賞することであるかもしれない。
しかも、神であるかのような御業や事績に対する称賛ならば、祝意の輪が瞬く間に広がるだろう。
五輪の表彰やノーベル賞など、まさしくこれに符合する。
本居宣長は、神は畏きものと表現した。
可畏む対象は、一般的な水準をはるかに超えた、神の如き力や出来事を含めている。
神の如き事績は、尊ばれ感銘に満ち満ちる。
しかしながら、名誉や栄誉の類が乱立し、混乱して困ってしまうこともある。
秀でた事績ではなく、順番や在籍年数でもって要職や受賞となっている場合も多い。
名誉や栄誉はまた違った見え方となる。
本来、名誉や栄誉は、順番にまわってきて受けるものでも、在籍した年数が長いからの類で受けるものでもない。
また履修・履歴で判断するものでもないし、多額の金銭の支払いによって得るものでもない。
ましてや、誰それの口利きによって得るものなどではないはずなのだ。
しかし、怠惰な組織は残念ながら意外に多い。
このような組織では、本当に事績のあるものはたやすく埋没する。
鋭意努力し失敗を重ねながら事績を求めるよりも、
無難にそつなく失敗なく過ごす、偽善の名誉と栄誉の側が圧勝となるからだ。
この偽善は、やがて大きな既得権益になる。厄介なのだ。
世の中の悪しき出来事は、実のところ善悪の戦いで生じるものではない。
善と、偽善に内在する既得権益との戦いなのである。
神の御業に近づけるように、天分を悟り、
自らの意思で鋭意努力をなしていくことが惟神の道である。
この道にいるとき、偽善はすぐに見破れる。
真贋の目が宿るからだ。
正しい道にいよう。